この時間なら、唐渓の生徒はいないよな。
辺りをキョロキョロと見回しながら、巡回中かと思われる警官の姿に思わず身を隠す。
私服とはいえ、どう見たって高校生だよな。でも、中卒で働いてる子もいるから、私くらいの年齢の子がこの時間帯に駅をウロついてたっておかしくはないだろうし。
そう考え直してはみるものの、人通りの多い改札前は落ち着かない。
また、休んじゃった。
今日で三日目。そろそろ学校もおかしいと思い始めているかもしれない。
一度休むと、休み癖がついちゃうのかな?
これではいけないとは思うのだが、今の美鶴は実はそれほど悩んではいない。それどころではないのだ。
携帯を確認する。智論からメールが来たのは昨日の夜。それからほぼ半日。今は翌日のお昼過ぎ。
パッチテストをやってあげる。でも時間がないから木塚駅の駅前まで来て。そんな簡潔な内容だった。
パッチテストって何だっけ?
ユンミの部屋で、暗闇の中で美鶴はメールを睨みつけ、やがて、あっ と声をあげた。
アロマだか精油だかの話だ。たしか、直接肌に使う場合はテストをしないといけなかった。アレルギーだかなんだかで肌荒れしちゃうといけないからだとか。
でも、駅前で? テストってそんなに簡単にできるモノなのかな?
美鶴は、ユンミの部屋に持ち込んだ数少ない持ち物をひっくり返す。綺麗な小瓶。蓋を外すと、柔らかな芳香が漂う。気持ちが落ち着く。
そういえば、銀梅花の精油はどうなったんだろう。明日、それもくれるのかな? あ、でも智論さん、レポートを出し忘れたとかって言ってたな。買いにいってくれてる時間なんてないのかもしれないし。でも、パッチテストはしてくれるんだよね。ネット環境さえあれば買い物はできるし、忙しくっても手に入れる事はできるのかな?
うーん。
若葉の眩しいカフェで向かい合って話したのを思い出す。店に入り、席に着くまではなんとなく不快だった。だが、別れる時には清々しさすら感じていた。
最初は智論さんって、あんまりスキじゃなかったのに。なんでだろう。この香りのせい? それとも、私の恋を応援してくれるから?
小瓶をテーブルの上に置き、人差し指で突く。隣の灰皿にコツンと当たった。ユンミは出かけている。夜の部屋に一人。電気を消すと、ほとんど真っ暗。
一人の時間が心地良い。一人でいるとあれこれ考えちゃうけど、でも本人が目の前にいなければ忘れていられる。前日に聞かされたユンミの過去にあれこれと思考を振り回されずに済む。弥耶という少女の姿はあれっきり。
智論さんって、イイ人なんだと思う。
暗闇の中で息を吐く。
私って、単純。
だから霞流さんに遊ばれるんだよ。
自虐的に言ってみる。
でも、諦められないんだよね。
そう、諦められない。
だったら、頑張るしかないんだよね。
そうだよ。進路の事も大事だけど、瑠駆真や聡の事も大事だけど、里奈の事だって大事かもしれないけれど、でもやっぱり一番大事なのは霞流さんなんだよね。
小さく息を吸う。
だから、とにかく霞流さんだけは諦めちゃダメなんだよ。
だったら、霞流さんの事だけを考えてたらいいんじゃない?
霞流さんの事だけを?
他の事なんてなにもかも忘れて、霞流さんの事だけを考えていれば?
瑠駆真も聡も里奈も、ユンミの事も母の事も、進路の事もなにもかも放り出して、霞流さんを振り向かせる事だけに集中する。だって、一番大事なのは霞流さんなんだから。
そもそも、どの問題も簡単には解決なんてできないんだから、どれもこれもを解決しようとするなんて、そんなの間違いなんじゃない?
だいたい、解決するだなんて、そんな気、あるの? 特に里奈の事とかさ。
聡や瑠駆真との事だって、解決するような問題でもないんじゃない? アンタが霞流さんだけを見ていればいいんだから。ユンミや母親の事だって、アンタには直接は何にも関係ないじゃない。今更、父親? ユンミがアンタの父親であろうとなかろうと、そんなのは今更、どーでもいいじゃない。
アンタが考えなきゃならないのは、どうやったら霞流慎二を振り向かせる事ができるかってコトだけよ。
他の事は放り出して?
ゴクリと、唾を呑む。
学校も、放り出して?
このまま、辞めてしまって?
真っ暗な部屋の中、それでも辺りが暗くなるように感じた。
やめよう。
ゴロンと床に寝転がる。
そんな事考えてたら、また頭が混乱する。今はそんなコトを考えてる時じゃない。
そうだよ。今はとにかく智論さんだよ。明日智論さんに会って、テストを受ければいいんだよ。そうしてひょっとしたら銀梅花の香りも手に入れて。
そうだ、今決まってるのはそれなんだから、決まっている事だけに集中すればいいんだよ。
必死に言い聞かせる。
柔らかな芳香が、そんな美鶴を宥めるかのように頭を撫でる。混乱しているはずなのに、落ち着く。
寝よう。でないと、寝坊したら大変だ。
美鶴は必死に目を瞑った。
「遅くなってゴメン」
背後からの声に、美鶴は振り返る。
「電車が遅れちゃって。ゴメンねぇ」
昨日、ようやく梅雨入りした。だが今日は晴天。かなり気温があがって蒸し暑くなっている。場所によっては30℃を超えるところもあるらしい。智論も暑いのか、ピンクのミニタオルで額を軽くトントンと叩きながら、肩に掛けたトートバッグに片手を突っ込んだ。
「はい、これ」
中から取り出したのはB6サイズの茶色のマチ付き紙袋。
「これ、何ですか?」
「中に薄めた精油が入ってるわ。瓶にラベルを貼っておいたから、それを使ってテストしてみて」
「え?」
テストしてみてって。
「智論さんがしてくれるんじゃないんですか?」
「そうしてあげたいところなんだけど」
言いながら左手の腕時計を睨む。
「時間が無くって、すぐに滋賀に戻らないといけないのよ」
「え?」
「でないと、バイトの時間に遅れちゃう」
振り向いて、改札の上に表示された時刻を確認する。
「パッチテストのやり方を書いた紙も入れておいたから、それを見てやってみて。あ、あと、マートルの香りだけど、ごめんなさい、まだ手に入れてないの。手に入ったらすぐに電話するから」
「は、はい」
早口で伝えてくる智論の様子を見ていると、質問したり何かを尋ねたりするのが申し訳ないような気がする。
「わからない事があったら言って。それから、目に入ったりしたらすぐに洗い流してね」
半分背を向けながら快活に伝える。
「ごめんなさい、呼び出しておいてこんな慌しくって」
「あ、いえ」
「マートルの件はもうちょっと待ってね」
「あぁ、はい」
「あ、それと、あれから慎二にイジメられてない?」
身が固くなりそうになる。
「いえ、別に」
「それならいいわ。何かあったらすぐに言うのよ。力になるから」
ニコッと笑うその笑顔が清々しい。
「はいっ!」
智論の勢いに押され気味だった美鶴は、思わず笑って返事をしてしまった。その姿に安堵したのか、智論は背中越しに手をヒラヒラさせながら改札を通り抜け、ホームへの階段を駆けあがっていってしまった。
「忙しいんだな」
まるで嵐が去ったかのよう。呆然としながら智論が消えた方角を見て、それから手元に視線を落とした。
薄めた精油だって言ってたよな。
覗き込むと、青い小瓶がいくつか入っている。一本を取り出してみる。
ベルガモット。
シールのラベルに少し丸っこい字で書かれている。蓋は透明のプラスチックで、スプレー容器になっているようだ。
テストの仕方を書いた紙を入れてくれたんだったよな。あ、でも、銀梅花の香りは入ってないのか。
少しだけガッカリしたような気持ちでさらに紙袋を覗き込もうとする背後から、低い声がかけられる。
「今の女」
驚いて振り返る。聡だった。
「あの時の女だよな。たしか、霞流慎二の知り合い」
「聡」
「何やってた?」
「何って、それよりも聡こそどうしてココに」
しかもこんな時間に。学校はまだ終わってはいないはずだ。
目を丸くする美鶴の手首を掴む。
「サボった」
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